こんにちは、Dayです!
このブログでは、最新の脳科学論文を一般の方にも楽しめるようにわかりやすくまとめています。
今回のテーマは「脳の配線図と実際の信号の流れは違う?線虫で見えた驚きの脳ネットワーク」についてです。
脳の研究では、神経細胞同士のつながりを示す「コネクトーム(神経配線図)」がしばしば注目されます。しかし、最新の研究は「配線図通りに脳が働いているわけではない」ことを明らかにしました。
線虫 C. elegans を使った実験では、光で神経を刺激しつつ全脳活動を記録することで、実際の情報の流れ(シグナリングネットワーク)が描き出されました。その結果、解剖学的な配線図と、機能としての情報の流れには大きな違いがあることが判明したのです。
この発見は「脳は配線図だけでは理解できない」という脳科学の根本に迫る問いを示しており、人間の脳を理解する手がかりにもなり得ます。
本記事は、以下の研究をもとにしました。
Dvali, S., Seguin, C., Betzel, R., & Leifer, A. M. (2025). Diverging network architecture of the C. elegans connectome and signaling network. PRX Life, 3(3), 033021.
https://doi.org/10.1103/6wgv-b9m6
脳は「配線図」だけで理解できるのか?
脳科学の世界では神経細胞がどのようにつながっているかを示す「コネクトーム(神経配線図)」が重要視されています。コネクトームは、いわば脳の「地図」です。どの神経がどこにつながっているかがすべて記録されているため、「この地図を見れば脳の働きがわかるのでは?」という期待が長年ありました。
しかし実際には、配線図と脳の活動が必ずしも一致するわけではありません。人間の脳研究でも、解剖学的なつながりと、fMRIなどで観測される機能的なつながりが大きく異なることが報告されています。つまり「線で結ばれているから働く」と単純には言えないのです。
今回紹介する線虫 C. elegans の研究は、この疑問に真正面から取り組んだものです。構造(配線)と機能(情報の流れ)を直接比較することで、「脳は配線図だけで理解できるのか?」という根本的な問いに挑んでいます。
線虫 C. elegans が脳科学のモデルになる理由
線虫 Caenorhabditis elegans(シー・エレガンス)は、体長わずか1ミリほどの小さな生物ですが、脳科学の研究において特別な存在です。最大の理由は、この線虫が世界で唯一、すべての神経細胞とそのつながり(コネクトーム)が完全に解明されている動物だからです。
C. elegans の神経細胞はわずか302個。そのうち頭部の神経188個は詳細に記録されており、電子顕微鏡を使った精密な観察により「脳の配線図」が完成しています。これは、人間のように数千億のニューロンを持つ複雑な脳では到底できないことです。
さらに、線虫は遺伝学的な操作がしやすく、光で神経を刺激する「光遺伝学」や、全神経活動を記録する「カルシウムイメージング」といった最先端の実験技術も適用可能です。つまり、「配線図」と「実際の神経活動」を1つの生物で同時に比較できるという、他にはない強みを持っています。
このユニークな特徴が、今回の研究において「配線」と「信号の流れ」の違いを直接確かめることを可能にしました。
新しいアプローチ:光遺伝学と全脳カルシウムイメージング
脳の配線図(コネクトーム)と、実際の信号の流れ(シグナリングネットワーク)を比べるためには、個々の神経を正確に刺激し、その反応を網羅的に記録する必要があります。今回の研究では、そのために 光遺伝学(オプトジェネティクス) と 全脳カルシウムイメージング という2つの最先端技術が使われました。
光遺伝学では、神経細胞に「光でオン・オフできるスイッチ」を導入します。レーザー光を当てると、その神経だけを選んで活動させることができます。つまり「この神経を刺激したら、どの神経が反応するのか?」を正確に調べられるのです。
一方、カルシウムイメージングは、神経が活動したときに細胞内で増えるカルシウムイオンを蛍光で可視化する手法です。線虫の脳全体をリアルタイムで撮影することで、どの神経がいつ活動したかを同時に記録できます。
この2つを組み合わせることで、「一つの神経を刺激 → 全脳の反応を観測」という因果的なマッピングが可能になりました。研究チームはこの膨大なデータを解析し、線虫全脳の“シグナル伝達地図(Signal Propagation Atlas)” を作成したのです。
配線図とシグナリングネットワークはここまで違った
研究チームが作成した「シグナリングネットワーク(情報の流れの地図)」を、従来のコネクトーム(神経配線図)と比べたところ、驚くべき違いが見つかりました。
まず、モジュール(神経のグループ)構造が一致しないことが明らかになりました。配線図の上では20以上の細かいグループに分かれていたのに対し、シグナリングネットワークでは6つの大きなまとまりしか見られなかったのです。つまり、構造として分かれている神経群が、実際には広く情報をやりとりしていることを示しています。
さらに、情報の流れは必ずしも一方向ではないこともわかりました。配線図の上では「感覚ニューロン → 中間ニューロン → 運動ニューロン」という順序が強調されますが、実際の信号伝達では必ずしもその流れに従っていませんでした。多段階(ポリシナプス)での伝達や、シナプスを介さない「エクストラシナプス伝達」など、より複雑な仕組みが働いていることが示唆されます。
この結果は、「脳は配線図どおりに動く」という単純な考え方を大きく揺さぶるものであり、脳の機能を理解するには「実際の信号の流れ」を見ることが不可欠であることを示しています。
咽頭(食べる神経)は例外的に一致していた
配線図とシグナリングネットワークを比べると多くの部分で違いが見られましたが、唯一例外がありました。それが、食べ物を取り込む役割を担う「咽頭(いんとう)」の神経群です。
咽頭は、線虫にとって命に直結する「食べるためのポンプ」のような器官を動かす神経ネットワークです。この領域は、解剖学的にも他の神経系から切り離されたような構造を持っており、外部とのつながりが極端に少ないのが特徴です。
研究では、解剖学的な配線図でも、実際の信号伝達ネットワークでも、咽頭の神経群がひとまとまりの独立したモジュールとして現れました。これは「構造」と「機能」が一致した数少ない例であり、咽頭が自律的に働く“独立システム”であることを裏づけています。
ただし、詳細に見てみると違いもありました。配線図ではほぼ外部と孤立している咽頭の神経群が、シグナリングネットワークでは他の神経群とも情報をやりとりしていたのです。つまり「基本的には独立しているが、必要なときには全体と連携できる」柔軟な仕組みを持っていることが示されました。
この結果は、「完全に閉じた独立システム」と思われていた咽頭が、実際には脳全体と結びつく役割も持っていることを示しており、神経系の柔軟性を象徴する発見といえます。
「ハブ神経」は必ずしも機能の中心ではない
ネットワーク科学では、特に多くのつながりを持つ「ハブ(中心的なノード)」が、情報のやりとりを左右する重要な存在だと考えられています。脳の研究でも、リッチクラブ(ハブ同士が密につながった集団)は「神経活動の中心を担うはず」とされてきました。
しかし今回の研究は、この常識を揺さぶる結果を示しました。
解剖学的な配線図から見たリッチクラブと、実際の信号伝達から見たリッチクラブを比べたところ、両者はほとんど重ならなかったのです。
唯一の例外は、後ろ向きの運動を制御するAVEL/AVERニューロン。この神経ペアだけは、解剖学でもシグナリングでもハブとして現れました。つまり「最も極端な特徴をもつ神経」は両方で保存されるものの、多くのハブは配線上の中心にあっても、実際の情報伝達の中心にはならないことがわかったのです。
さらに興味深いことに、シグナリングネットワークのリッチクラブには、感覚ニューロンや運動ニューロンも含まれていました。本来「入力」や「出力」を担うと考えられていた神経が、実際には「情報のハブ」として機能していたのです。
この発見は、「配線上の中心=機能の中心」とは限らないことを示しており、神経の役割を見直す必要性を強く示唆しています。
感覚ニューロンが「情報の統合役」になる?
従来の神経科学では、感覚ニューロンは「外界からの刺激を受け取る入り口」として理解されてきました。匂い、温度、光などを感知し、それを中間ニューロンへ渡す――いわば「センサー」としての役割です。
ところが今回の研究で描き出されたシグナリングネットワークでは、感覚ニューロンの一部が「統合役(インテグレーター)」として振る舞っている可能性が浮かび上がりました。
特に、線虫の主要な嗅覚神経である「アンフィッド感覚ニューロン」は、外界の情報を受け取るだけでなく、他の多くの神経から信号を受け取る“受け皿”のような性質を示していたのです。
これは「入力を集め、まとめる」役割であり、単なる感覚器官にとどまらない新しい機能を示唆しています。
さらに、運動ニューロンや中間ニューロンとのつながりも再編成され、感覚ニューロンが行動制御の中核に位置する可能性も見えてきました。
この発見は、「神経の役割は配線図だけでは決められない」という事実を象徴しています。感覚ニューロンが入力にとどまらず、情報のハブとしても働く――これは、脳の柔軟さや予想外の情報処理の仕組みを理解するうえで重要な手がかりとなるでしょう。
脳科学にとっての意義
この研究が示したのは、「配線図=機能」ではないというシンプルながらも根本的な事実です。線虫のように神経数が少なく、全コネクトームがわかっている生物ですら、実際の情報の流れは配線図どおりには進んでいませんでした。
これは脳科学にとって非常に大きな意味を持ちます。
人間を含む複雑な脳では、何千億ものニューロンと膨大なシナプスが存在します。そのすべてを「配線図」として描いたとしても、それだけで脳の機能を理解することはできないのです。むしろ、動的な信号の流れ方や、シナプスを介さない伝達(エクストラシナプス伝達)、神経修飾因子の作用といった要素を組み合わせて考える必要があります。
さらに、「ハブ神経」や「コミュニティ構造」といったネットワーク科学的な概念も、構造と機能で解釈が大きく異なることが示されました。これは、これまで広く使われてきた解析指標を見直す必要があることを意味します。
要するに、この研究は 「脳を理解するには、解剖学と生理学を統合して考えることが不可欠だ」 という方向性を強く打ち出したのです。
まとめ|脳を理解するために必要な視点とは
今回紹介した研究は、線虫 C. elegans を使って「脳の配線図」と「実際の信号の流れ」を比較したものです。その結果、構造と機能が必ずしも一致しないことが明らかになりました。
- 咽頭のように構造と機能が重なる部分もあるが、ほとんどの神経群ではズレが見られる
- 配線上の「ハブ神経」が、実際の信号伝達では中心でない場合もある
- 感覚ニューロンが「情報の統合役」として働くなど、従来の分類を超えた役割が見えてきた
これらの結果は、「脳は配線図だけでは理解できない」という強いメッセージを発しています。脳を本当に理解するには、解剖学的な接続だけでなく、実際のダイナミックな信号の流れ、シナプス以外の伝達手段、さらには神経修飾や遺伝子発現なども統合して考える必要があるのです。
線虫というシンプルなモデル生物から得られたこの知見は、人間の脳研究にとっても大きな示唆を与えています。私たちが「心」や「行動」の仕組みに迫るためには、配線と機能をつなぐ新しい視点が不可欠なのです。

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